内外海半島ローカルニュース



 新天地に引越し

JAわかさの正面玄関に老梅の樹がふっくらとした芽を吹き第二の人生のスタートです。

専務理事から「梅を植えたい」との相談を受け、老梅が三本残っているので是非とも生かして欲しいと逆にこちらからお願いをしました。早速次の日、組合長と専務が作業着に長靴姿でユンボを扱っての移植作業です。

梅の樹は昭和の初期、祖父が西田村(三方町西田地区)から峠をいくつも越え背中に背負って帰り植えた代物です。
「若い頃、父親と一緒に漁に出て嵐に会い九死に一生を得、大地を踏んだ時、この動かぬ丘でどんな苦労をしても、海の上には及ぶべくもないと悟り、裏山に駆け登り果樹を植えた」(若狭歴史民族資料館長 中島辰男氏談)そうで、梅や柿、みかん等の果樹栽培に取り組みました。

生きのいい新芽が出てどうやら根付いてくれたようです。新天地はJAわかさの本館前ですのでなんとなく誇らしげです。又、花が咲いたら続報をお届けします

(2001年2月15日)


 良弁さんのお里帰り

若狭小浜の里「白石」に、それは仲の良い夫婦がいました。
やっと授かった男の子が、ある日突然大鷲にさらわれ、奈良東大寺、二月堂の大きな杉の樹に「ふご」をかけたまま飛び去ったそうです。
東大寺開祖、良弁僧正にまつわる伝説です。
その、良弁さんが創作ミュージカルで若狭の地にお里帰りをしました。奈良の市民劇団、市民コーラスが演じる創作ミュージカル「二月堂良弁杉」に小浜市民100人が仲間入りさせていただき小浜公演が実現しました。

お水送りとお水取りもまったく同じ舞台設定です。
二月堂を建立した実忠和尚が全国の神々を招いた時、若狭の遠敷明神は魚獲りに時を忘れ、遅れてかけつけました。そのお詫びとして本尊に供えるお香水を若狭から送りますといって二月堂の下の岩を打つと、二羽の鵜が飛び立ち、きれいな水が湧き出したそうです。

お水送りは、その二月堂の若狭井に通ずるといわれるお香水が、神宮寺住職の手で遠敷川に放たれ、クライマックスを迎えますが、神宮寺から「鵜の瀬」までの松明行列や、大護摩の炎にはロマンを感じ、根強いファン4000人が炎と水の祭典に酔いしれました。

今回のイベントの総決算としてお水取りに参加しました。
二月堂の欄干の角に立つと、雅楽の演奏の中、厳かに繰り広げられるお水取りの様子が一部始終見られます。
若狭井からくみ上げられた水は、担い棒で運ばれ二月堂内の水がめに入れられます。二月堂内陣ではいろんな儀式が執り行われますが、籠松明は圧巻で、堂内を駆け巡り、火の粉を振りまきます。
翌朝、開山堂を参拝させていただきました。良弁さんに会えたし、実忠さんにも会うことが出来ました。思い残すことは何もございません。

( 2001年3月15日 )


 願い込め数珠繰り

西小川の曹洞宗常福寺で18日、伝統行事の「数珠繰り」が行われました。長さ約20メートルの数珠を区民らが約1時間かけ練り続け、家内安全や無病息災を祈ります。

午前11時、地元のお年寄りや子供の手を引いた人たち60人が寺の観音堂に集合。十一面観音菩薩像をまつる仏壇を囲むように拝殿の回廊に円座を組み、村上住職の読経に合わせて数珠を回し始めます。

1718年に作られたとされる大きな数珠は、直径3センチのケヤキの玉が千個連なり、特にご利益があるといわれる直系8センチの大玉が2個あります。
お年寄りらは両手を左右に休みなく動かし、「南無大悲観世音」と唱えながら数珠を手繰り、大玉が回ってくるとありがたそうに額にあて手を合わせます。
区民のほとんどがこの日ばかりは休暇をとって伝統行事を継承しています。
( 2002年1月18日 )


 野や海辺に春の息吹き

樹木がぷっくらと芽を吹き出し、畦道や土手に野草が可憐な花を咲かせ春の息吹きを感じます。浜辺にはさざ波が打ち寄せ、岩場には海藻がゆったりと気持ちよさそうに揺らいでいます。

朝食を済ませたご夫婦がいきなり廊下を走って外へ飛び出しました。両手を広げ「こーんな大きなイカが波打ち際にいました」と声を弾ませ話し掛けてくれました。10月から2月頃にかけてタルイカ(ソデイカ)がよく打ち上げられ、地元の漁師さんは先を競って獲らまえます。「随分衰弱していたので沖へ流してやりました」この時期産卵のため湾内へ入り込むオニイカではないかとの事ですが、めったに見られないものに遭遇し感激していました。 「きれいな貝殻がいっぱい落ちていたので拾ってきました」と奥さんが袋包みを見せ、うれしそうです。

花芽に変わった梅園では野草が可憐な花を咲かせています。「イヌノフグリ」が、鮮やかなブルーで緑に映えます。谷川の水の音がすがすがしく、小鳥のさえずりが心地よく、春爛漫、楽しみ方もいろいろです。
( 2002年3月17日 )


 仏谷「上の山」観音と正法寺「如意輪観音」

元亀二年(1570年)この村の長、五郎左衛門がいつものように漁に出ると、双児島周辺の海中から、怪しげな光りを放つ不思議なものに出会いました。五郎左衛門は思い切って潜ってみると、海底に金色に輝く仏像が出現しました。

その仏像を脇に抱え揚げた五郎左衛門は、村の背後の山腹にお堂を建て「上の山観音」としてお祀りし、それより村名を以前の坂尻から仏谷に、長の名も脇左衛門と改名されました。

ある日、霊夢によって遷座を示されたので、後瀬山のふもとに新たに堂宇を建てお祀りしました。それが現在の小浜大原、正法寺の「銅像如意輪観音半迦思惟像」で艶やかで気品あふれる美しさがあります。

筏釣りやカキの養殖が盛んな仏谷の村なかには「上の山観音旧跡、是より一丁余」と記された石柱が立ち、海の男達の信仰心も厚く観音様のお参りは欠かせないようです。
( 2002年3月20日 )


 磯見漁と入漁料

天然わかめの漁が始まり、天日干しされた新わかめが春の陽射しを浴びながら磯の香りを漂わせています。解禁間もなく背丈も短く、量的にはまだまだですが、最盛期には伝馬船いっぱいに刈り取ってきます。

伝統漁法の磯見漁は、箱めがねで海底を覗きながら5メートル位もある先端に鎌の付いた竹竿を操りながらの漁法です。舟の上にうつ伏せになり、左手に持った箱めがねを覗き、櫂で漕ぎながら漁場を探します。わかめは根元から鎌で刈り取り、浮いてきたところを又、鎌を使って拾い上げます。わかめの他、アワビ、サザエ、ウニ、ナマコ等、それぞれ先端に付ける金具は変わりますが、達人達は量を競って舟を出します。

いたやの展示蔵に明治初期に取り交わされた海面漁業権の証文があり、隣接する西小川区との境が記されています。阿納集落の眼前まで迫って、磯見漁の漁場には程遠く海での生活の苦労が見えてきます。山林の所有により線引きされるようで、内外海半島の漁場の大半は泊区と西小川区が占めており、泊区に米八斗、西小川区に米五斗を阿納と犬熊両区で毎年納めています。
入漁料を年貢米で精算する、いにしえからの漁村文化です。
( 2002年3月28日 )


 浦辺海道、162号線

矢代湾に幾つかの岬がせり出し、その浦々には戸数10軒余りの集落がひっそりと肩を寄せ合うように点在しています。内外海の東部地区は、主要道路が国道に認定され、岬の小山を針で縫うように次々とトンネルが整備されています。

獲れた魚を炭火で焼き「里売り」したり、保存食の「へしこ」や「なれ鮨」に漬け込んだりする漁村文化は今尚健在ですが、阿納まで舟で運び、険しい阿納坂越えを天秤棒で担ぎ市場へ出荷した様子は、遠い昔話になってしまいました。

阿納トンネルは3月2日に開通したばかりですが、阿納から犬熊、志積を経て、矢代までは、海岸線を望みながらの素晴らしいドライブコースがすでに完成し、田烏から釣姫、谷及、須ノ浦を経て三方町へ通ずる道路も昨年完成したばかりです。

残るは矢代、田烏間2.6キロだけとなり、田烏では集落の背後の山裾を整備中で、本年度から長さ100メートル、高さ30メートルの巨大大橋の建設に着手します。今後矢代間に、二つのトンネルともう一つの橋を建設しなければならないのですが、浦辺(うらべ)の風光明媚な海岸線を通る観光道路として注目を浴びるのではないかと思います。全線開通が待ち望まれます。
( 2002年3月31日 )


 年越し参りと弓打ち講

「夜中参り」は年越の除夜の鐘を合図に、村中の人が揃って氏神さんにお参りする伝承文化で、特に昨年帰国した拉致事件の被害者「富貴ちゃん」の事もあって阿納の小さな村の鎮守さんがNHKの「ゆく年くる年」で実況生中継されました。

宮禰宜の家に全員揃ったところで春日神社に向かいます。神主の許しを得た宮禰宜が祭殿の扉を開け「おひごく」を供え祈祷した後、頭を下げた村人一人一人に鈴を打ち鳴らし願掛けをします。なにしろ生中継ですので真昼間のようなライトを浴びて皆の顔も神妙です。

元旦にはその宮禰宜に振る舞いを受け、完璧に出来上がった後「弓打ち講」が始まります。区長や厄年を迎えた男衆が唱え事を言った後、勢いよく糸を引き天に向かって矢を放ちます。今年は「東の辻で浜に向かって」と方角を暦で見ながら、五穀豊穣、大漁祈願、家内安全、区の繁栄などを祈願します。今年は特別に富貴ちゃんの家族全員の帰国を願う矢も放たれました。

年越参りの後には、各家々で井戸の「若水」を汲んで、元旦にはその水で雑煮を炊きます。又、弓打ち講の後、漁家ではお供え物と一升瓶を持って「舟魂さん」にお参りをします。律儀に継承している家は少なくなりましたが農山漁村の正月風景として残したいものです。ちなみに私は数年来省略させていただいています。 
( 2003年1月1日 )


 韓国遭難船救護の村

神様が蘇洞門の千畳敷に立ち寄られ、しばらく泊まっていかれたことから村名を「泊」と名づけたという言い伝えのある泊村の沖合いに明治33年1月12日の朝、ウラジオストクから韓国への帰路中に嵐にあい難破した韓国船、四仁伴載号が漂着しました。

乗船していた93人は飢えと寒さで死の寸前であったが、救護事務所となった海照院で八日間の手厚い看護を受け無事帰国。残された古文書には「別れの浜では親子の別れのように袖で涙を絞るがごとく」とあり民族を越えて暖かい交流があったことが想像されます。

平成12年、事件から丁度百年を機に、海に向かって自然石の碑が建てられました。「海は人をつなぐ母の如し」と日本語とハングル文字で刻まれ、碑の裏には村長の告別の辞とともに、礼文があり、「貴国の恩は海のごとく山のごとく・・・万年の世まで伝えます」の意が記されています。

その実話を基に描かれた絵本「風の吹いてきた村」は事故後百周年を記念して実行委員会が三千部作成。史実が挿絵とともに描かれ100年前の美談をよみがえらせます。拉致事件の被害者家族が小泉首相にこの絵本を手渡し脚光を浴びましたが、金正日さんにも是非とも読んでもらいたいものです。
( 2003年3月10日 )


 高速道路の開通と小浜線電化

若狭地方に高速交通網の整備が進められ9日に舞鶴若狭自動車道が小浜西ICまで開通。又JR小浜線が電化され15日に開業。新ダイヤでは嶺北や関西方面からの乗り継ぎが改善されるなど、交流人口の増加による若狭地方の発展が期待されます。

若狭地方で初めてとなる高速道路は、舞鶴東-小浜西間の24.5キロの開通で、京都府と福井県が初めて高速道路で結ばれました。大飯高浜インターで式典の後80台余りの車がパレードし小旗を振る沿線住民と共に待望の道路完成を祝いました。視界が広がる若狭湾の眺望は旅行者の旅愁を誘うものと思います。

又、JR小浜線の敦賀-東舞鶴間の電化開業で沿線の市町村は主要駅でそれぞれ独自のイベントを展開。セレモニーが開かれた小浜駅には敦賀、舞鶴の両方面からの電車や福井から直通のサンダーバード型特急が次々に到着。総勢800人が記念大会の会場、市文化会館までパレードし開業を盛大に祝いました。

この高速道路の開通と小浜線の電化開業を記念して9月13日から一ヶ月間、小浜市を主会場に水と炎の千年祭「若狭路博2003」が開催されます。「若狭」の新鮮な食材に舌で触れ、自然、歴史文化、人情を体感していただこうと一人でも多くの来場者をお待ちしております。4月からプレイベントとして嶺南地方8市町村が様々な企画を展開していますので今年は「若狭」にご注目下さい。
( 2003年3月20日 )


 発心寺の寒修行

小寒の1月6日、曹洞宗発心寺で恒例の寒行托鉢が始まり、黒染めの衣に網代笠をかぶった雲水が「ほぉー」という独特の声を響かせ街中を歩き、さえた掛け声と鈴の音、北風を受けて大きく膨れ上がる法衣が、趣きある街並みに一層風情を添えます。

発心寺には日本に来て禅の教えを学びたいと修行に訪れる欧米人が多い事で知られていますが、寒修行はこの時期恒例で多くのカメラマンが撮影に訪れます。厳寒の中で托鉢し、歩きながら禅の境地に達しようとする禅修業の一つで「歩く座禅」ともいわれています。

午前八時。白足袋にわらじ履きの雲水が列をなして山門を出発。鈴を鳴らし「ほぉー、ほぉー」と振り絞るような掛け声を繰り返しながら、古い街並みが残る市街地を一列に並んで歩き回ります。声を聞きつけたお年寄りや子供が玄関から顔を出すと、僧たちは浄財を鉢で受け取り深々と合掌。道行く市民からのお布施にも手を合わせ応えます。

今年は雪のない正月ですが、雨の日も雪の日も、白足袋をずぶ濡れにしながらの厳しい修行で、雲水たちは頬を真っ赤に染めながら白い息とともに大声を振り絞ります。冬の風物詩ともいえる寒修行。立春の2月3日まで続けられます。
( 2004年1月20日 )


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