内外海半島ローカルニュース



 阿納坂トンネルと桜

阿納坂トンネルを抜けると急に視界が広がり、眼下に海を望むことが出来ます。スカイブルーと緑の山々に映え、桜のピンクが際立ち咲き誇っています。

桜の樹は、トンネル開通記念に植えたもので、地元の婦人会が下刈り等、管理をしてきました。三十五年が経ち樹々も随分と大きくなり素晴らしい景観を醸し出しています。しかし今年の秋には下に新しいトンネルが完成し、この景観を観て頂く機会が少なくなるのが誠に残念です。

昭和41年、陸の孤島と言われたこの地にトンネルが開通し、観光客が訪れる民宿村に大きく変容致しました。子供達は険しい山道を学校に通い、病人が出ると戸板の担架で山越えをします。「ぜひともトンネルを」と托鉢を思い立ち酷暑厳寒もいとわず、浄財を集めに歩いたのが、当時の蓮性寺住職、笠井昭道和尚です。悲願十年、地道な活動が実っての開通でした。

蓮性寺境内には石像が建立され、台座には「願力抜山」と刻まれています。現代版「青の洞門」といわれたトンネルと桜並木。新トンネルが開通しても、この時期だけは是非とも訪ねてみて下さい。
( 2001年4月7日 )





 子安観音 17年目のご開帳

奈良時代の天平元年(757年)の二月、矢代の海岸に一隻の唐船が漂着しました。この船には王女と女官ら8人が乗っており、磯辺におりて藻などを採り、飢えをしのいでいました。発見した村人達は食糧等を与えて介抱していたのですが、船に積み込まれていた金銀財宝に目を奪われ、一行を襲撃して略奪したと伝えられています。

やがて村人達の間に悪病がはやり、作物はできず、村は絶滅の危機に見舞われるようになり、天罰を恐れた村人は本堂を建立して観音像を安置しました。毎年4月3日に執り行われる「手杵まつり」は、黒装束に身を包んだ村人役の男衆が杵を振りかざしたり、弓を地面に打ち付けたりして王女たちへの襲撃シーンを再現して、霊を慰めます。

唐船が漂着した頃の唐の国は反乱が相次ぎ、都を追われた皇帝一族はあちこちへ難をのがれた、その中の一部が矢代の海岸に流れ着いたようです。一昨年、中国の密航船が漂着しました。1200年前も今も、潮の流れは変わらないようです。

その聖観世音菩薩が17年ぶりに開帳され法要が営われました。念仏を唱える老女たちの打ち鳴らす鐘の手にも力が入ります。身重だった王女の姿を写したとされ腹部に膨らみがあるのが特徴で、「子安観音」と親しまれ、安産を願う女性の信心を集めています。
( 2001年4月15日 )





 田舎の原風景と「手杵まつり」

「手杵まつり」は、漂着した唐船の金銀財宝を奪おうと王女や女官を襲撃した先人達の非業を詫び、平安初期以来途絶えることなく続けられている奇祭です。矢代崎には、宮禰宜以外は足を踏み入れる事が出来ない「聖地」として祠が建ち、悲運の最期を遂げた異国の女性たちの霊を祀っています。

観音堂前や神社脇には胴回り3メートルを越えるタモの大木が生い茂り、神社の参道には道標の石柱と大きな石灯籠が、苔むした幹を持つ満開の八重桜と妙に調和しています。

村の真中を石積みの護岸を施した谷川が流れ、階段を下りた洗い場が数ヶ所に設けてあります。川沿いの窪地に井戸を見つけました。今では使わなくなって金魚が泳いでいましたが、コンコンと湧き出る井戸で生活用水のほとんどを賄っていました。つい近年まで半鐘板が吊ってあって、寄り合いの知らせをケヤキの木槌で叩いたそうです。

田舎の原風景が随所に色濃く残り、伝統行事もすたれることなく引き継がれており、住む人の「心」と「顔」が見えてきます。タイムスリップしたような田舎の原風景。心安らぐ空間です。
( 2002年4月15日 )


※受け継ぐ農山漁村の価値ある伝統文化を顕彰する「第二回むらの伝統文化顕彰」に、「手杵祭りと田舎の原風景」をアレンジして応募したところ、一席の農林水産大臣賞に輝き、東京で表彰されました。





 後追い桜前線

今年は3月下旬の不安定な気候で、桜の開花が例年より一週間程早く、桜前線も急ぎ足になったり立ち往生したりで戸惑ったようです。

浦辺の海岸線では「山桜」が色とりどりの花を咲かせ、スカイブルーの空と海の色に映えています。須の浦から少年自然の家に通ずる道路から見下ろした岬 の山肌が特にきれいで、新緑の緑の中にピンクの濃淡をつけ咲き誇っています。又、蘇洞門の長崎付近に群生地があり、船からしか見る事が出来ませんが大輪の花を咲かせ、巨木であろう事が想像できます。

矢代には「八重桜」の古木が三本、ぼたんのような花を付け枝をしならせています。今は廃校になった小学校の新築記念に植樹したそうで40年からの歳月を数えます。根元から二本に分かれ、幹回りは片方で1メートル位、樹高も10メートル以上で尊徳像を覆っています。

「八重桜」より更に一週間遅く、「右近の桜」が見られます。甲ケ崎の瑞月寺の前庭に古木があり、訪れる人も多かったのですが、残念な事に今年は花を咲かせませんでした。この古木から根分けをしてもらったものが若狭の薬師堂前に、青みを帯びた白とピンクの花を咲かせ、二代目右近の面目を保っています。
( 2002年4月16日 )





 里地里山、荒廃の危機

田植えシーズンに田烏の道路を走ってみると感じるものが一つ。舌で舐めるように、それはきれいに田んぼの土手を刈り取ってあります。漁師の村でわずかの耕地に対する執着心、愛着心があらわれ感動を与えてくれます。

集落の背後には幾つかの谷がありますが、山が迫っている為それぞれが細かい棚田になっています。機械を入れることも出来ず手作業で、畦塗りや土手を叩く作業は水管理には欠かせません。田から田へ水を引き込む筒が幾何学模様の様に感じます。

比較的集落に近い谷や、土地改良を施した谷はものの見事に管理されていますが、一番深い谷の棚田は、車は入らないわイノシシや鹿に荒らされるわで後継者もそっぽを向き、工事がすすむ国道162号線の廃土処理候補地にも挙げられ、身近な自然が今、「開発」と「後継者不足」による二重の荒廃の危機に直面しています。
環境保全の視線が「里地里山」に向けられつつある今日、山の伏流水を引き込む棚田は国土保全のためにも必要で、何とか残したいものですが「お助けマン」が必要です。元気のある方、名乗り出て下さい。

( 2002年4月29日 )



 椎村神社と王の舞

若狭の集落は現在東浦にあるが、およそ千年前に移り住んだもので、小山一つ隔てた西之浦には、今では村の鎮守である椎村神社だけが椎やタモの巨木に覆われ鎮座しています。

その椎村神社の祭礼が5月5日営まれ、獅子舞と「王の舞」が奉納され、区の繁栄と今年の豊作を祈りました。獅子退治の様子を演じる「王の舞」は飛鳥、奈良時代に中国や朝鮮から伝わり普及したと言われていますが、この若狭の「王の舞」はいかにも素朴でしみじみとした味わいがあり、市の無形民族文化財に指定されています。

西之浦の神社から東浦の村中までの1キロ余りを太鼓や神輿、稚児などが行列を成し、途中、砂を盛って清めた場所で一服をしました。「お旅所」といって神様の休憩所だそうで、今では海岸道路が出来、車が行き来しますが、昔は小山を越えなければならず、400キロ以上もある神輿を担ぐには神様どころか人間様が一服せざるを得ません。

村人たちがいまだに「忠朝さん」と親しみを込めお呼びしているのが、小浜藩主酒井忠勝の嫡男、忠朝公である。父忠勝の勘気に触れこの西之浦に蟄居され椎村神社参道の右手、谷川に沿って登った所に居住跡があります。神仏の信仰あつく、神社堂宇の再建に力を尽くされたそうで、境内の大きな石灯篭と神輿にはくっきりとご紋が刻んであり、当時を偲ぶことが出来ます。

( 2002年5月20日 )





 大物競い「釣りまつり2003」

第八回の「若狭小浜釣りまつり」が絶好の釣り日和に恵まれて開催され、太公望が若狭の海釣りと群青の海、緑の山々の大自然を満喫しながら大物釣りを競いました。

イベントも定着し、毎年県内外から600〜800名の応募があり抽選を行っています。今年の参加隻数は35隻。これだけの漁船が一度に集結しての釣り大会は他にはございません。漁師の心意気が伝わる日本一の船釣り大会です。

開会式の後、午前6時に大漁旗を掲げた漁船が、我先にと一斉に漁場へ向かいます。狙う魚種は「アジ」と「キス」で、外れても「外道賞」が待っています。大物を釣らせた船頭さんにも「船頭賞」があり、プライドをかけての船上戦です。

11時に納竿で次々に漁港に帰ってきます。主会場の犬熊漁港では、「民宿かみさん会」が振舞う、おにぎりとカニ鍋やイカの炭火焼に舌鼓。表彰式では一喜一憂し、抽選会ではさざえや梅干し等、思いがけない特産物のお土産に歓声をあげていました。

( 2003年6月8日 )





 「梅の木オーナー」と収穫体験

果肉が厚いと定評のある「福井梅」の収穫が6月中旬から始まり、収穫体験をするグループや「梅の木オーナー」となった家族連れで梅園もちょっとした賑わいを見せました。

今年初めて「オーナー」になった福井のKさんは両親と兄弟6人で収穫に訪れ段ボール3箱にぎっしりの梅を「たくさん獲れました」「こんな経験初めてです」と、小鳥のさえずりが聞こえる緑の山々を眺めながら、自然環境を満喫していました。小浜市内のYさんは途中雨に見舞われ中断。「日にちを空けたら粒が大きくなりました」と、こちらも大満足。収穫しただけ持ち帰る京都のSさんはおとなりさんグループ14人で参加。手造りの梅干しや梅ジャム、梅酒などに加工するようです。

収穫体験には市内の授産施設入所者を招き、のどかな自然環境の中で汗を流し、収穫の喜びを体感して頂きました。「これならお手伝いできそう」と来年からの貴重な戦力になるかも知れません。「青梅を10キロ送って下さい」と、宅配で注文される方も着実に増えてきていますが、200本の梅の木。まだまだ余裕がございますので更なるご用命賜りますようよろしくお願い致します。

( 2003年6月24日 )





 萬徳寺庭園と「モリアオガエル」

名勝、埋石式枯山水庭園を擁する萬徳寺では、春はつつじ、秋はもみじが敷き詰められた白い砂と苔むす石段、緑の山々に映えて四季おりなす自然の演出が、心憎いまでの美を心に残してくれます。

音無川の岸にあった極楽寺は罪人が入寺すれば助かるという若狭唯一の「駆け込み寺」であったといわれていますが、江戸時代の初期、兵火にかかり今の山麓に移されて再興。真言宗「萬徳寺」と改称しました。重文の木造阿弥陀如来坐像は極楽寺の本尊であったといわれています。

4月の上旬には樹齢300年の「五色椿」が白色、紅色、紅白の絞りと、色とりどりの花を咲かせ目を楽しませてくれますが、6月には「モリアオガエル」が毎年のように産卵に訪れます。
後背の森から出現し、池の水面に枝を伸ばした木々を選定。今年は6月3日の夜中に産卵を開始したそうです。白い泡を出しながらどんどん大きくなり、直径10〜13センチの球状の中に400〜500ケの黄色い卵を産み付けてゆきます。今年は少なかったそうですが毎年20ケ位、まるで「綿菓子」がぶら下がっているような感じの光景が見られます。10日から2週間、雨に打たれたり、風に吹かれたりで泡と共に池の中へ。今度は「おたまじゃくし」となって成長を続け、自然淘汰された生き残り組が7月中には森へ帰ります。

( 2003年6月30日 )





 いるか地蔵と街道松

阿納尻のエンゼルライン入口との三叉路にいるか地蔵堂があります。入江に迷いこんだいるかの大群が、あたかもお地蔵さんにお詣りするかのように押し寄せて来たことからこの名がついたと言われ、海上安全、雨乞い地蔵として地域の人たちに守られています。

このお堂のすぐ脇に樹齢500年を数える街道松が天高くそびえていました。昭和の40年代に道路が拡幅され地蔵堂は移転されたものの街道松は道央に取り残され、やがてアスファルトや排気ガスの影響で昭和48年、あえなく姿を消してしまいました。

「老松に渡ろう風のひびきあり うば玉の夜にわれはきくかも」若山牧水の弟子でこの地に移り住んだ竹中皆二が詠んだ歌です。神職を業とし「いるかや」という雑貨店を奥さんとともに細々と営みながら、歌に親しみ地域の文化振興に大きく貢献してきました。

その門下生が地蔵堂の前に歌碑を建立してくれました。歌碑の下には街道松の根っこが静かに眠っています。又、京都で活躍中の陶芸家 竹中 浩は次男で学生時代に近くの山から赤土を掘り出しては陶器を焼いていたそうで、親子二代、地域が誇る文化人となっています。

( 2004年4月2日 )





 馬ノ背越えとアブラギリ

阿納の春日神社近くの通称「湯ノ山」と呼ばれる谷の一角にかって温泉が湧いていました。むかし、殿様が阿納湯に湯治に来て西小川の村娘を見染め恋仲になった。娘は馬ノ背を越えて毎晩通いつめたが、月のものにかまわず入浴したところ、ぴたりと湯が止まり、その源泉は有馬温泉に湧き出したという言い伝えがあります。

今では「馬ノ背越え」をする人はいませんが、かっては「郵便屋さん」が毎日通い、地区の人たちも祭や法事に呼ばれたときなどによく行き来したようです。道端にアブラギリ(ころび)やハゼの木が野生化して育っています。寛保二年(1742年)に、小浜藩がアブラギリの植林を奨励したそうで、耕地のない内外海地区は険しい山を開墾して「ころび畑」にしました。

ころびは果皮を乾燥後、粉砕によって取り出した種子が桐油になります。長く燈火用として用いられていましたが、防水性を利用して番傘や提灯、雨合羽などにも用いられました。ころび一俵が米一俵といわれ、昭和30年頃まで地域の産業として栽培が続けられました。

野生化したころびの木は、きめの細かい材質が研炭として利用され、かなり伐採されたようですが、内外海地区の山間にはどっしりと根付き、5月には可憐な白い花を咲かせます。

( 2004年4月10日 )


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